毎晩にぎやかだった巷の盆踊りが、いつとはなしに聞こえなくなった。夕やみははやく訪れて、昇る月の色も冴えてきた。澄んだ宵のひととき、どこからともなく、尺八の音が流れてくると、ああ秋だなという気分になる。秋の調べに誘われて、一人の音楽家のことを思い出した。
シュミット氏の名前はあまり知られないようだが、ドビュッシイの弟子でピアニスト、作曲家として活躍、かつて来朝して演奏会を開き日本の楽界に感銘を与えた、と言えば記憶を新たにされる方もあろう。
郷里の友人の紹介でわたしは当時シュミット氏の東京案内役をいささか務めた。氏の念願は、日本の家庭的雰囲気の中で古典音楽を聞いてみたいということだったので、知人の紹介である旧家に一夕招いてもらった。床の間を背に行儀よく座ったシュミット氏は、美しいキモノ姿の娘さんが見事に弾きまくる三味線の音にじっと耳を傾けている。十分二十分とたつにつれ、わたしは横でもぞもぞしながら、もう少し短い曲があってもよさそうなものだ、などと考え出したが、生まれて初めて畳に座ったシュミット先生のほうは、足のしびれも感じぬごとく端然と傾聴している。さすがに礼儀を知る人だとわたしは感心した。
さてその家を辞してから、彼の忍耐をねぎらうつもりで「あそこの方々も喜ばれたことでしょう。よく終わりまで丁寧にお聞きになりましたね」とほめると、彼は驚きと不満を顔に表して言い返した。「礼儀で聞いていたと思ってるのですか。それどこか、実にすばらしい一時間だった」。その理由は、と門外漢のため懇切に説明してくれたところによると、昔ギリシャ音楽に用いられて今は失われた音程、四分ノ一音、八分ノ一音とかいう微妙な音が日本の古典音楽になお生き生きと躍動しているのを発見したのは魂の揺らぐばかりの感激であった、というのである。心ない耳にはただ異様な音の上下と聞こえる旋律も、聴き方ひとつでこうも感銘深いものか、とわたしは大いに啓発されたのである。
西洋音楽と日本音楽とは、音質音程からして異なる以上、まるきり勝手が違うわけである。昔ある純日本趣味の御老人にベートーヴェンをお聞かせしたら、まるで鶏のけんかだ、との御批評に恐れ入ったことがある。が、こちらもあまり威張れない。盆踊りの歌など耳にたこができるくらい聞かされて、すっかり覚えた気がしても、いったん家に帰ると、最初の“ハアー”さえ出てこない。よほどなじみのない音で出来上がっているわけであろう。
だが、シュミット先生の教訓以来、心の耳を傾けるように努めるにつれ、難しい日本音楽も少しずつわかるようになった。先には奇妙な笛と聞き流した尺八の音にも、今はそぞろに秋のわびしさを感じるようになったのである。
いくら様子が違っても、結局人間の気持ちの発露であるものを、お互い人間の心でくみとれぬはずはない、つまりは理解への努力と善意の問題である。これは音楽だけのことではないと思うのである。