●カンドウ サウバー Sauveur Candau(1897-1955)カトリック教会司祭
 大正14年(1925)、パリ外国宣教会の司祭として来日し、教育、執筆、講演活動などを通じて日本に多彩な貢献をした。天才的な日本語力と深い人間愛から、日本の多くの人に慕われた。昭和30年(1955)東京で逝去。司馬遼太郎は、「南蛮の道」のなかで、”神父であり神学者でありかつ哲学者でもあったが、それ以上に優れた日本人でもあった”と彼を評している。

 本ブログでは、1955年「朝日コラム・シリーズ」の一冊として刊行されたカンドウ師の日本語随筆集「世界のうらおもて」から、順不同ではありますが1話ずつ掲載していきます。師の逝去から50年以上経過し、著作権はかかっていません。

2010年6月23日水曜日

真善美

 木の葉がとりどりに色づくころになると、様々の展覧会が人工の枠を繰りひろげて、自然と妍を競う。心ひかれるままに、無い暇をつくって杖をひいたり座談にもなまかじりの美術論に花を咲かせたりする。
 この方面の知識はどこで得たかと問われるなら、実は第一次世界大戦中、塹壕の中で、と奇妙な白状をしなければならない。
 戦争小説類を読むと、塹壕の中の生活など、まるで本能だけがものを言う野獣さながらの浅ましいものに想像されるが、事実はそう簡単に人間性を捨て切れるものではない。攻撃の合間には、人間らしい思考生活が、平時よりもっと真剣に営まれるのである。
 戦闘の止み間の貴重な時を、わたしはしばしば戦友の一人の芸術家と議論に過ごした。こちらは自分の頭を悩ましている哲学や形而上学の問題に相手の目を開かせようと努めたが、彼は哲学に対して一種の妬みと恨みを抱いていた。彼の熱愛する母親は大のベルグソン崇拝家で、毎日のようにソルボンヌにこの大哲学者や亜流の講義を聴きに行く。帰れば食事などそこのけで、ありがたい講釈を子供に受け売りする。で、子供は哲学への嫌悪を身にしみて成長し、芸術をもって身を立てる決心をしたというのであった。そういう次第ゆえ、彼の方はわたしが美術に暗いことを慨嘆し、専ら教育に努めてくれた。のみならず、四カ月ごとの休暇にはパリに連れ立ってルーヴル博物館に日参し、絵画彫刻をつぶさに、エジプト、ギリシャあるいはイタリア派、スペイン派と、系統的に説明してくれたのであった。
 これほどの間柄であったが、終戦で別れて後は、いつとなく音信不通となってしまった。画家として活躍していることは、昔サロンによく出品している様子で想像していたが、今はどうしていることか。エビュテルヌと名を言えば、消息をご存じの方もあろうか。
 彼のことを特に思い出したのは、今次の大戦直後ローマで大美術展を見たときであった。先に空襲から守るため地下壕に集めてあった国宝級の名画を、各地に送り返すに当たって、以前ムッソリーニの参謀本部であったヴェネチア宮殿で一般に公開しtなおである。全イタリアの傑作の一堂に集まった壮観に感激しながら、この喜びを味わい得るのも、かつての戦友のおかげと感謝を新たにしたのであった。
 彼の方はわたしのことをその後思い出してくれたであろうか。芸術は尊い、しかし人は芸術のみで生きるものではない、とのわたしの忠告を生かしてくれたであろうか。
 ともあれ、お互い年の功と経験を積んだ今、わたしが昔の芸術論に次のような結論を持ち出せば、彼もきっと同意してくれるであろう。
 真の芸術は心を広くするものである。人類全体とあらゆる文化に親しみを感じさせるものである。また人間の神秘を何かの形で表現するものである。およそ人の心を狭小にするものは、真でも善でも美でもあり得ない。

2010年6月20日日曜日

母の心

 国の将来を憂えて多くの説をなす人が、必ずしも教育問題に関心をよせるではないことは、考えてみると不思議である。わずか二、三十年先の国家は、今の子供らの手で左右されるものである。とすれば、教育は最も重要な将来への布石であることは論をまたない。どんな子供も粗末には扱えぬはずである。
 先日九州のある孤児院を参観して、そこの教育法に大いに感心した。第一、孤児院と呼ぶことからして許さない。ここのモットーは、子供たちに孤児という意識を一切もたせぬことである。子供らは院長をお母様と呼び、他の修道女らをお姉様と呼んで、一大家族のにぎやかな中心となっている。彼らの教育にはひたすら母の愛をもって当たり、叱責よりも子供自身に正しく考えさせる指導をする、これが、他国の模倣を避け純日本式に考える院長の信条であるらしい。
 社会の日陰から集まった二百人恵まれぬ子らのうちには、扱いにくい性質も少なくない。A坊は徹底した怠け者のひねくれで、皆が手をやいていた。ある日院長は一緒に庭を散歩しながら、美しく咲いたバラの花を手折って少年に与えた。腕白坊主は受け取るが早いか、プイと捨ててしまった。院長は花を拾ってまた渡しながら、静かに言った。「何でもないようなものでも、大事にしてやると、立派のものになるのよ、このお花を地面にさして、毎日かわいがってお水をやってごらんなさい」坊主はふくれ顔で花を受け取った。渋々土に突きさしたバラの茎は根づき、いつか葉をのばし、翌年には庭中でいちばん見事な花を咲かせ、皆の賛嘆を浴びた。この時からA坊の性格はすっかり変わり、最も勤勉な優しい子供になった。
 B坊は底ぬけの食いしん坊だった。多人数のことゆえ、御飯は丼に盛り切り一杯と決まっていた。B坊が飯を盛るとき、隣りの子にはフワリと底から持ち上げ、自分の丼には押しずしのように詰めこむのを院長は見た。その場は何も言わずにおき、それから折を見て、人への思いやり吹き込むような話を聞かせた。やがてある日、この食いしん坊が自分の丼から飯をすくい出しては院長の碗に入れるのを見つけて、わけをきくと「このごろお母様がやせたから、もっと食べさせたいんだ」と答えた。生みの母ならぬこの”お母さま”は嬉し涙を隠しようもなかった、とわたしに語った。
 近年ヨーロッパ各地にも家庭精神による孤児収容所が多大の成功をおさめている。自らも少年感化院の出で、自己の体験と不幸な子らへの愛情でりっぱな保護院を設立した人の例もフランスにある。
 子供の教育はいつ始めるべきかとの問いに対して、ナポレオンは「子供の生まれる二十年前、その母親の教育から始めよ」と答えたという。
 いかにも、いろいろな意味で、真の教育は教育者から、母の心の教育から始めるべきであろう。