●カンドウ サウバー Sauveur Candau(1897-1955)カトリック教会司祭
 大正14年(1925)、パリ外国宣教会の司祭として来日し、教育、執筆、講演活動などを通じて日本に多彩な貢献をした。天才的な日本語力と深い人間愛から、日本の多くの人に慕われた。昭和30年(1955)東京で逝去。司馬遼太郎は、「南蛮の道」のなかで、”神父であり神学者でありかつ哲学者でもあったが、それ以上に優れた日本人でもあった”と彼を評している。

 本ブログでは、1955年「朝日コラム・シリーズ」の一冊として刊行されたカンドウ師の日本語随筆集「世界のうらおもて」から、順不同ではありますが1話ずつ掲載していきます。師の逝去から50年以上経過し、著作権はかかっていません。

2020年5月9日土曜日

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司牧担当者:青木孝子

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2010年12月24日金曜日

 二つのクリスマス

二つのクリスマス

 わたしが今までに出会った最も殺伐なしかも平和なクリスマスの思い出話をしたのは、最もさびしいしかも賑やかなクリスマスの晩のことであった。
 それは先の戦傷後、スイスの病院で腰骨入れ換えの大手術を受けて間もないころであった。全身ギブスに生き埋めの形で、教会のクリスマスをんでいるわたしをあわれんで、手術をした六人の医師が病床を囲んで会を催してくれたのであった。降誕祭の夜食と言えば、日本での元旦の雑煮のように、家族そろって祝う楽しい行事である。それをこの医師たちは犠牲にして、うそ寒い病室に集まってきた。レマン湖の鯉の上等料理を取り寄せ、シャンペンを抜き、Aドクトルがわたしの首にナプキンをかければ、Bドクトルはフォークを口に運び、大きな巣雛のように総がかりで食べさせる。それから夜の二時過ぎまで、且つ飲み且つ歌い、果ては次々と変わったクリスマスの思い出を語り合った。
 そこでわたしも持ち出したのが次の話であった。
 第一次大戦の塹壕の中で迎えた降誕祭のことである。我々は夜になっても続く烈しい戦闘と厳しい寒さに疲れきっていた。凍傷で脚を切断するようになるのを恐れて、めいめいサージンの空缶に炭火を入れ、靴に縛りつけていた。靴の底が焼けてジリジリいっても構わず、ただもうがむしゃらに、数十メートル先の敵の塹壕を目掛けて、ヘトヘトになりながら手榴弾を投げ合っていた。そしてだれもが心ひそかに故郷のクリスマスのことを思っていた。
 そのうちとうとう一人が「ああ、今ごろはみんな教会で讃美歌を歌っているんだろうな」とつぶやくと、そばのが「どうだ、我々も一つ歌おうじゃないか」といきなり“天に光栄、地には平安”とクリスマスの聖歌を歌い出した。それにつられてあちこちから歌声が上がり、たちまち塹壕中は大合唱になってしまった。と、向こうのドイツ軍の塹壕がなんとなくひっそりしたと思うと、とたんに張りのある美しい何部合唱かで、我々のコーラスに加わってきた。こちらが気勢を上げて声を高めると、向こうも歯切れのよいドイツ語でますます調子をつける。負けじ劣らじと歌ううち、相手の合唱に代わる代わる耳を傾けるようになり、聞きながら次の歌を用意して、あちらがすむと、さあこれはどうだ、とばかり歌い出す。そうして思いだす限りの聖歌を、敵も味方もわれを忘れて、天にとどろけ地にも響けと、思うさま歌い抜いた。
 やがてさすがに息が切れ、歌合戦の歌の種も尽きたとき、どちらももう手榴弾のことなどすっかり忘れ、いい気持ちでそのまま朝までぐうぐう寝てしまった。実に何年ぶりかの平和な眠りだった。相手の寝込みを襲おうなどという考えの夢にも浮かぶはずのないことを、双方とも確信していた。
 それこそ一家族伝来の祭を共に喜び祝った兄弟のように、同じ歌の余韻に包まれて、安らかに眠ったのであった。

2010年11月27日土曜日

秋の調べ

 毎晩にぎやかだった巷の盆踊りが、いつとはなしに聞こえなくなった。夕やみははやく訪れて、昇る月の色も冴えてきた。澄んだ宵のひととき、どこからともなく、尺八の音が流れてくると、ああ秋だなという気分になる。秋の調べに誘われて、一人の音楽家のことを思い出した。
 シュミット氏の名前はあまり知られないようだが、ドビュッシイの弟子でピアニスト、作曲家として活躍、かつて来朝して演奏会を開き日本の楽界に感銘を与えた、と言えば記憶を新たにされる方もあろう。
 郷里の友人の紹介でわたしは当時シュミット氏の東京案内役をいささか務めた。氏の念願は、日本の家庭的雰囲気の中で古典音楽を聞いてみたいということだったので、知人の紹介である旧家に一夕招いてもらった。床の間を背に行儀よく座ったシュミット氏は、美しいキモノ姿の娘さんが見事に弾きまくる三味線の音にじっと耳を傾けている。十分二十分とたつにつれ、わたしは横でもぞもぞしながら、もう少し短い曲があってもよさそうなものだ、などと考え出したが、生まれて初めて畳に座ったシュミット先生のほうは、足のしびれも感じぬごとく端然と傾聴している。さすがに礼儀を知る人だとわたしは感心した。
 さてその家を辞してから、彼の忍耐をねぎらうつもりで「あそこの方々も喜ばれたことでしょう。よく終わりまで丁寧にお聞きになりましたね」とほめると、彼は驚きと不満を顔に表して言い返した。「礼儀で聞いていたと思ってるのですか。それどこか、実にすばらしい一時間だった」。その理由は、と門外漢のため懇切に説明してくれたところによると、昔ギリシャ音楽に用いられて今は失われた音程、四分ノ一音、八分ノ一音とかいう微妙な音が日本の古典音楽になお生き生きと躍動しているのを発見したのは魂の揺らぐばかりの感激であった、というのである。心ない耳にはただ異様な音の上下と聞こえる旋律も、聴き方ひとつでこうも感銘深いものか、とわたしは大いに啓発されたのである。
 西洋音楽と日本音楽とは、音質音程からして異なる以上、まるきり勝手が違うわけである。昔ある純日本趣味の御老人にベートーヴェンをお聞かせしたら、まるで鶏のけんかだ、との御批評に恐れ入ったことがある。が、こちらもあまり威張れない。盆踊りの歌など耳にたこができるくらい聞かされて、すっかり覚えた気がしても、いったん家に帰ると、最初の“ハアー”さえ出てこない。よほどなじみのない音で出来上がっているわけであろう。
 だが、シュミット先生の教訓以来、心の耳を傾けるように努めるにつれ、難しい日本音楽も少しずつわかるようになった。先には奇妙な笛と聞き流した尺八の音にも、今はそぞろに秋のわびしさを感じるようになったのである。
 いくら様子が違っても、結局人間の気持ちの発露であるものを、お互い人間の心でくみとれぬはずはない、つまりは理解への努力と善意の問題である。これは音楽だけのことではないと思うのである。

2010年10月4日月曜日

毒舌

 ある友人が政治談のついでに、あなたのお国にもゴタゴタが絶えないが、いざというときには、クレマンソーのような大物が出てくるからいいですな、と褒めるよな、慰めるようなことを言ってくれた。クレマンソーと言われて思い出した昔話を御紹介しよう。
 第一次世界大戦の最後の年のこと、フランドル戦線で連合軍が危なくなり、わたしの属する部隊は援軍として派遣された。幸い三日の激戦の後、危機を脱してひと息ついた。喜んだ首相兼陸相のクレマンソーはわざわざ戦線にきて将兵をねぎらい、各部隊に向かって特にクロア・ゲール(日本で言えば金鵄勲章)に値する働きをした者を今すぐに行賞したいから推挙するように、と申し渡した。で、わたしは自分の部隊からブーニエールという兵卒を呼び出した。この兵士は非常な危険を冒して、連絡の断たれた四つの部隊に重大命令を伝えたのであった。実はこのことはだれの目にも実行不可能と見え、連隊長でさえ、一つでも連絡がつけば、ぐらいの希望で派遣したのであった。ところがこの男は弾丸の雨をものともせず、猿のごとく右に走るかと見れば左の穴に身を伏せ、横に飛び斜めに走りして、たちまち姿を消してしまった。そして夕方ひょっこり帰ってきて、使命を果たしたと報告したときは、一同目と耳を疑ったものであった。後援部隊の奇襲が成功にたのは、全く彼の働きによるのである。
 ところでこのブーニエールという男は、およそ英雄らしくない無骨な田舎者で、特徴はと言えば、ひどく口の悪いことだった。朝から晩まで祖国フランスや政治家どもをののしる。中でも終始槍玉に止るのがクレマンソーだった。スープがまずいにつけ、靴が破れるにつけ、あのクレマンソーの畜生のおかげでこんな目にあう、ということになる。我々は一日に何十度”クレマンソーの畜生”を聞かされてきたかわからない。この毒舌家を、畜生呼ばわりされている当人の前に連れて行くのはちょっと皮肉な気がした。
 とにかく、矩形に整列した連隊の中央に、クレマンソーが簡略な狩猟服姿で立っているところへ、わたしはブーニエールを連れて進み、手短に彼の功績を述べた。クレマンソーは感嘆の面持ちで朴訥な若者の顔を眺め、議会での獅子吼よりも一段と声を張り上げ、次の言葉を述べながら彼の胸に勲章をつけた。
 「自分が今日ここに来たのは、フランスに代わって功労者に感謝を表明するためである。君の胸にこの勲章を飾ることを非常に嬉しく思う。こういう場合、君を誇りとして抱擁すべきは、君のお父さんとお母さんである。しかしお二人ともここにおられぬから、自分が代わって君を心から抱擁する」
 ブーニエールは、頭から足の先まで木の葉のように震えながら、感極まって泣いていた。
 やがて隊に戻り、皆からおめでとうを浴びせられたとき、まだあふれる涙を払いながら、彼はこう言ったものである。
 「あのクレマンソーの畜生が、あんなにまでして、おれを抱いてくれやがって・・・・」これを聞いてわたしは、口が悪いというのは必ずしも心の悪さを示すものではない、と悟ったのである。人間だれも完全な善人と言えぬが、腹からの悪人もいないわけである。

2010年6月23日水曜日

真善美

 木の葉がとりどりに色づくころになると、様々の展覧会が人工の枠を繰りひろげて、自然と妍を競う。心ひかれるままに、無い暇をつくって杖をひいたり座談にもなまかじりの美術論に花を咲かせたりする。
 この方面の知識はどこで得たかと問われるなら、実は第一次世界大戦中、塹壕の中で、と奇妙な白状をしなければならない。
 戦争小説類を読むと、塹壕の中の生活など、まるで本能だけがものを言う野獣さながらの浅ましいものに想像されるが、事実はそう簡単に人間性を捨て切れるものではない。攻撃の合間には、人間らしい思考生活が、平時よりもっと真剣に営まれるのである。
 戦闘の止み間の貴重な時を、わたしはしばしば戦友の一人の芸術家と議論に過ごした。こちらは自分の頭を悩ましている哲学や形而上学の問題に相手の目を開かせようと努めたが、彼は哲学に対して一種の妬みと恨みを抱いていた。彼の熱愛する母親は大のベルグソン崇拝家で、毎日のようにソルボンヌにこの大哲学者や亜流の講義を聴きに行く。帰れば食事などそこのけで、ありがたい講釈を子供に受け売りする。で、子供は哲学への嫌悪を身にしみて成長し、芸術をもって身を立てる決心をしたというのであった。そういう次第ゆえ、彼の方はわたしが美術に暗いことを慨嘆し、専ら教育に努めてくれた。のみならず、四カ月ごとの休暇にはパリに連れ立ってルーヴル博物館に日参し、絵画彫刻をつぶさに、エジプト、ギリシャあるいはイタリア派、スペイン派と、系統的に説明してくれたのであった。
 これほどの間柄であったが、終戦で別れて後は、いつとなく音信不通となってしまった。画家として活躍していることは、昔サロンによく出品している様子で想像していたが、今はどうしていることか。エビュテルヌと名を言えば、消息をご存じの方もあろうか。
 彼のことを特に思い出したのは、今次の大戦直後ローマで大美術展を見たときであった。先に空襲から守るため地下壕に集めてあった国宝級の名画を、各地に送り返すに当たって、以前ムッソリーニの参謀本部であったヴェネチア宮殿で一般に公開しtなおである。全イタリアの傑作の一堂に集まった壮観に感激しながら、この喜びを味わい得るのも、かつての戦友のおかげと感謝を新たにしたのであった。
 彼の方はわたしのことをその後思い出してくれたであろうか。芸術は尊い、しかし人は芸術のみで生きるものではない、とのわたしの忠告を生かしてくれたであろうか。
 ともあれ、お互い年の功と経験を積んだ今、わたしが昔の芸術論に次のような結論を持ち出せば、彼もきっと同意してくれるであろう。
 真の芸術は心を広くするものである。人類全体とあらゆる文化に親しみを感じさせるものである。また人間の神秘を何かの形で表現するものである。およそ人の心を狭小にするものは、真でも善でも美でもあり得ない。

2010年6月20日日曜日

母の心

 国の将来を憂えて多くの説をなす人が、必ずしも教育問題に関心をよせるではないことは、考えてみると不思議である。わずか二、三十年先の国家は、今の子供らの手で左右されるものである。とすれば、教育は最も重要な将来への布石であることは論をまたない。どんな子供も粗末には扱えぬはずである。
 先日九州のある孤児院を参観して、そこの教育法に大いに感心した。第一、孤児院と呼ぶことからして許さない。ここのモットーは、子供たちに孤児という意識を一切もたせぬことである。子供らは院長をお母様と呼び、他の修道女らをお姉様と呼んで、一大家族のにぎやかな中心となっている。彼らの教育にはひたすら母の愛をもって当たり、叱責よりも子供自身に正しく考えさせる指導をする、これが、他国の模倣を避け純日本式に考える院長の信条であるらしい。
 社会の日陰から集まった二百人恵まれぬ子らのうちには、扱いにくい性質も少なくない。A坊は徹底した怠け者のひねくれで、皆が手をやいていた。ある日院長は一緒に庭を散歩しながら、美しく咲いたバラの花を手折って少年に与えた。腕白坊主は受け取るが早いか、プイと捨ててしまった。院長は花を拾ってまた渡しながら、静かに言った。「何でもないようなものでも、大事にしてやると、立派のものになるのよ、このお花を地面にさして、毎日かわいがってお水をやってごらんなさい」坊主はふくれ顔で花を受け取った。渋々土に突きさしたバラの茎は根づき、いつか葉をのばし、翌年には庭中でいちばん見事な花を咲かせ、皆の賛嘆を浴びた。この時からA坊の性格はすっかり変わり、最も勤勉な優しい子供になった。
 B坊は底ぬけの食いしん坊だった。多人数のことゆえ、御飯は丼に盛り切り一杯と決まっていた。B坊が飯を盛るとき、隣りの子にはフワリと底から持ち上げ、自分の丼には押しずしのように詰めこむのを院長は見た。その場は何も言わずにおき、それから折を見て、人への思いやり吹き込むような話を聞かせた。やがてある日、この食いしん坊が自分の丼から飯をすくい出しては院長の碗に入れるのを見つけて、わけをきくと「このごろお母様がやせたから、もっと食べさせたいんだ」と答えた。生みの母ならぬこの”お母さま”は嬉し涙を隠しようもなかった、とわたしに語った。
 近年ヨーロッパ各地にも家庭精神による孤児収容所が多大の成功をおさめている。自らも少年感化院の出で、自己の体験と不幸な子らへの愛情でりっぱな保護院を設立した人の例もフランスにある。
 子供の教育はいつ始めるべきかとの問いに対して、ナポレオンは「子供の生まれる二十年前、その母親の教育から始めよ」と答えたという。
 いかにも、いろいろな意味で、真の教育は教育者から、母の心の教育から始めるべきであろう。

2010年4月21日水曜日

青春回顧

 「人間、愚かであるより苦しむ方がましだ。だから自分は、もう一度後戻りして青春をいきたいなどとは思わない」とは、ティボンの言である。全く同感だ、ということは、自分も若いころあまり利口なまねはしなかったことを、白状することになるかもしれない。
 「先生はよく僕たちの心理がおわかりになる」と学生がほめてくれたりするとくすぐったくなる。こちらも覚えのあることは、わかるのが当然である。だいたい、前に若かったことのない年寄りなんてあるものではない。
 昔の自慢話よりも失敗談をしてくれる年長者というものはありがたい、とある青年が言った。”世界のうらおもて”などと、よそ事ばかり上げ下げして、自分の事は棚に上げっぱなしはちとズルイ、とある読者は言った。どちらももっともと思う。では一つお話ししよう。

 今は昔、生意気盛りの青二才としてパリのカトリック大学に通っていたころのことである。有名な哲学科教授ジャック・マリタン先生の講義には、週に一回質問の時間というものがあった。生徒が自由に疑問・駁論を持ち出して先生と議論を戦わせる。この時間になると、決まって難しい反対論を押し立てて華々しい論戦を展開するのが、いつも最前列に陣取っている一女学生だった。彼女のソプラノが教室に鳴り響き始めると、又とばかり、我々男子学生たるもの、あまりいい気持ちはしない。いつもいつも鳴りをひそめて黄色いさえずり拝聴しているばかりが能ではあるまい。ひとつ向こうを張ろうではないか、と仲間と奮起したのが運の尽きであった。最初の代表質問の役はわたしに当てられてしまった。何はともあれ非凡な質問を提出せねばならぬと、本棚から厚い本を引っぱりだし、ライプニッツの単子論に関する反対論に目をつけて、それを丁寧に暗記した。その駁論に対する回答の方もむろん胸に畳み込んだのである。
 さて当日になると、胸をドキつかせながら手を挙げ、震える声を押さえて、どうやら終わりまで質問を述べたてた。先生は、なるほどおもしろいクラシックな反対論であると言って、問題を根本から説明し始めた。せっかくの予備知識もどこへやら、わたしはたちまち、わけがわからなくなってしまった。相槌だけはもっともらしく打つものの、今にも何か聞かれはしまいかと生きた心地はなく、流れ落ちる冷汗は今でも背筋に思い出せる。・・・・・無慮一時間も続いたかと思われる説明の末、このくらいで納得できたかと聞かれたときは、拝みたいほどで、どんなもんだと見返ってやるはずの女子学生の姿など、目に入るどころではなかったのである。
 ウィリアム・ジェームスは言う。「自分は年を取って魂の不滅を信じるようになった。年を取るにつれてようやく、真に生きるに必要な知識が備わってきたと思うから」
 まことに同感というほかないのである。