「人間、愚かであるより苦しむ方がましだ。だから自分は、もう一度後戻りして青春をいきたいなどとは思わない」とは、ティボンの言である。全く同感だ、ということは、自分も若いころあまり利口なまねはしなかったことを、白状することになるかもしれない。
「先生はよく僕たちの心理がおわかりになる」と学生がほめてくれたりするとくすぐったくなる。こちらも覚えのあることは、わかるのが当然である。だいたい、前に若かったことのない年寄りなんてあるものではない。
昔の自慢話よりも失敗談をしてくれる年長者というものはありがたい、とある青年が言った。”世界のうらおもて”などと、よそ事ばかり上げ下げして、自分の事は棚に上げっぱなしはちとズルイ、とある読者は言った。どちらももっともと思う。では一つお話ししよう。
今は昔、生意気盛りの青二才としてパリのカトリック大学に通っていたころのことである。有名な哲学科教授ジャック・マリタン先生の講義には、週に一回質問の時間というものがあった。生徒が自由に疑問・駁論を持ち出して先生と議論を戦わせる。この時間になると、決まって難しい反対論を押し立てて華々しい論戦を展開するのが、いつも最前列に陣取っている一女学生だった。彼女のソプラノが教室に鳴り響き始めると、又とばかり、我々男子学生たるもの、あまりいい気持ちはしない。いつもいつも鳴りをひそめて黄色いさえずり拝聴しているばかりが能ではあるまい。ひとつ向こうを張ろうではないか、と仲間と奮起したのが運の尽きであった。最初の代表質問の役はわたしに当てられてしまった。何はともあれ非凡な質問を提出せねばならぬと、本棚から厚い本を引っぱりだし、ライプニッツの単子論に関する反対論に目をつけて、それを丁寧に暗記した。その駁論に対する回答の方もむろん胸に畳み込んだのである。
さて当日になると、胸をドキつかせながら手を挙げ、震える声を押さえて、どうやら終わりまで質問を述べたてた。先生は、なるほどおもしろいクラシックな反対論であると言って、問題を根本から説明し始めた。せっかくの予備知識もどこへやら、わたしはたちまち、わけがわからなくなってしまった。相槌だけはもっともらしく打つものの、今にも何か聞かれはしまいかと生きた心地はなく、流れ落ちる冷汗は今でも背筋に思い出せる。・・・・・無慮一時間も続いたかと思われる説明の末、このくらいで納得できたかと聞かれたときは、拝みたいほどで、どんなもんだと見返ってやるはずの女子学生の姿など、目に入るどころではなかったのである。
ウィリアム・ジェームスは言う。「自分は年を取って魂の不滅を信じるようになった。年を取るにつれてようやく、真に生きるに必要な知識が備わってきたと思うから」
まことに同感というほかないのである。
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