木の葉がとりどりに色づくころになると、様々の展覧会が人工の枠を繰りひろげて、自然と妍を競う。心ひかれるままに、無い暇をつくって杖をひいたり座談にもなまかじりの美術論に花を咲かせたりする。
この方面の知識はどこで得たかと問われるなら、実は第一次世界大戦中、塹壕の中で、と奇妙な白状をしなければならない。
戦争小説類を読むと、塹壕の中の生活など、まるで本能だけがものを言う野獣さながらの浅ましいものに想像されるが、事実はそう簡単に人間性を捨て切れるものではない。攻撃の合間には、人間らしい思考生活が、平時よりもっと真剣に営まれるのである。
戦闘の止み間の貴重な時を、わたしはしばしば戦友の一人の芸術家と議論に過ごした。こちらは自分の頭を悩ましている哲学や形而上学の問題に相手の目を開かせようと努めたが、彼は哲学に対して一種の妬みと恨みを抱いていた。彼の熱愛する母親は大のベルグソン崇拝家で、毎日のようにソルボンヌにこの大哲学者や亜流の講義を聴きに行く。帰れば食事などそこのけで、ありがたい講釈を子供に受け売りする。で、子供は哲学への嫌悪を身にしみて成長し、芸術をもって身を立てる決心をしたというのであった。そういう次第ゆえ、彼の方はわたしが美術に暗いことを慨嘆し、専ら教育に努めてくれた。のみならず、四カ月ごとの休暇にはパリに連れ立ってルーヴル博物館に日参し、絵画彫刻をつぶさに、エジプト、ギリシャあるいはイタリア派、スペイン派と、系統的に説明してくれたのであった。
これほどの間柄であったが、終戦で別れて後は、いつとなく音信不通となってしまった。画家として活躍していることは、昔サロンによく出品している様子で想像していたが、今はどうしていることか。エビュテルヌと名を言えば、消息をご存じの方もあろうか。
彼のことを特に思い出したのは、今次の大戦直後ローマで大美術展を見たときであった。先に空襲から守るため地下壕に集めてあった国宝級の名画を、各地に送り返すに当たって、以前ムッソリーニの参謀本部であったヴェネチア宮殿で一般に公開しtなおである。全イタリアの傑作の一堂に集まった壮観に感激しながら、この喜びを味わい得るのも、かつての戦友のおかげと感謝を新たにしたのであった。
彼の方はわたしのことをその後思い出してくれたであろうか。芸術は尊い、しかし人は芸術のみで生きるものではない、とのわたしの忠告を生かしてくれたであろうか。
ともあれ、お互い年の功と経験を積んだ今、わたしが昔の芸術論に次のような結論を持ち出せば、彼もきっと同意してくれるであろう。
真の芸術は心を広くするものである。人類全体とあらゆる文化に親しみを感じさせるものである。また人間の神秘を何かの形で表現するものである。およそ人の心を狭小にするものは、真でも善でも美でもあり得ない。
2010年6月23日水曜日
2010年6月20日日曜日
母の心
国の将来を憂えて多くの説をなす人が、必ずしも教育問題に関心をよせるではないことは、考えてみると不思議である。わずか二、三十年先の国家は、今の子供らの手で左右されるものである。とすれば、教育は最も重要な将来への布石であることは論をまたない。どんな子供も粗末には扱えぬはずである。
先日九州のある孤児院を参観して、そこの教育法に大いに感心した。第一、孤児院と呼ぶことからして許さない。ここのモットーは、子供たちに孤児という意識を一切もたせぬことである。子供らは院長をお母様と呼び、他の修道女らをお姉様と呼んで、一大家族のにぎやかな中心となっている。彼らの教育にはひたすら母の愛をもって当たり、叱責よりも子供自身に正しく考えさせる指導をする、これが、他国の模倣を避け純日本式に考える院長の信条であるらしい。
社会の日陰から集まった二百人恵まれぬ子らのうちには、扱いにくい性質も少なくない。A坊は徹底した怠け者のひねくれで、皆が手をやいていた。ある日院長は一緒に庭を散歩しながら、美しく咲いたバラの花を手折って少年に与えた。腕白坊主は受け取るが早いか、プイと捨ててしまった。院長は花を拾ってまた渡しながら、静かに言った。「何でもないようなものでも、大事にしてやると、立派のものになるのよ、このお花を地面にさして、毎日かわいがってお水をやってごらんなさい」坊主はふくれ顔で花を受け取った。渋々土に突きさしたバラの茎は根づき、いつか葉をのばし、翌年には庭中でいちばん見事な花を咲かせ、皆の賛嘆を浴びた。この時からA坊の性格はすっかり変わり、最も勤勉な優しい子供になった。
B坊は底ぬけの食いしん坊だった。多人数のことゆえ、御飯は丼に盛り切り一杯と決まっていた。B坊が飯を盛るとき、隣りの子にはフワリと底から持ち上げ、自分の丼には押しずしのように詰めこむのを院長は見た。その場は何も言わずにおき、それから折を見て、人への思いやり吹き込むような話を聞かせた。やがてある日、この食いしん坊が自分の丼から飯をすくい出しては院長の碗に入れるのを見つけて、わけをきくと「このごろお母様がやせたから、もっと食べさせたいんだ」と答えた。生みの母ならぬこの”お母さま”は嬉し涙を隠しようもなかった、とわたしに語った。
近年ヨーロッパ各地にも家庭精神による孤児収容所が多大の成功をおさめている。自らも少年感化院の出で、自己の体験と不幸な子らへの愛情でりっぱな保護院を設立した人の例もフランスにある。
子供の教育はいつ始めるべきかとの問いに対して、ナポレオンは「子供の生まれる二十年前、その母親の教育から始めよ」と答えたという。
いかにも、いろいろな意味で、真の教育は教育者から、母の心の教育から始めるべきであろう。
先日九州のある孤児院を参観して、そこの教育法に大いに感心した。第一、孤児院と呼ぶことからして許さない。ここのモットーは、子供たちに孤児という意識を一切もたせぬことである。子供らは院長をお母様と呼び、他の修道女らをお姉様と呼んで、一大家族のにぎやかな中心となっている。彼らの教育にはひたすら母の愛をもって当たり、叱責よりも子供自身に正しく考えさせる指導をする、これが、他国の模倣を避け純日本式に考える院長の信条であるらしい。
社会の日陰から集まった二百人恵まれぬ子らのうちには、扱いにくい性質も少なくない。A坊は徹底した怠け者のひねくれで、皆が手をやいていた。ある日院長は一緒に庭を散歩しながら、美しく咲いたバラの花を手折って少年に与えた。腕白坊主は受け取るが早いか、プイと捨ててしまった。院長は花を拾ってまた渡しながら、静かに言った。「何でもないようなものでも、大事にしてやると、立派のものになるのよ、このお花を地面にさして、毎日かわいがってお水をやってごらんなさい」坊主はふくれ顔で花を受け取った。渋々土に突きさしたバラの茎は根づき、いつか葉をのばし、翌年には庭中でいちばん見事な花を咲かせ、皆の賛嘆を浴びた。この時からA坊の性格はすっかり変わり、最も勤勉な優しい子供になった。
B坊は底ぬけの食いしん坊だった。多人数のことゆえ、御飯は丼に盛り切り一杯と決まっていた。B坊が飯を盛るとき、隣りの子にはフワリと底から持ち上げ、自分の丼には押しずしのように詰めこむのを院長は見た。その場は何も言わずにおき、それから折を見て、人への思いやり吹き込むような話を聞かせた。やがてある日、この食いしん坊が自分の丼から飯をすくい出しては院長の碗に入れるのを見つけて、わけをきくと「このごろお母様がやせたから、もっと食べさせたいんだ」と答えた。生みの母ならぬこの”お母さま”は嬉し涙を隠しようもなかった、とわたしに語った。
近年ヨーロッパ各地にも家庭精神による孤児収容所が多大の成功をおさめている。自らも少年感化院の出で、自己の体験と不幸な子らへの愛情でりっぱな保護院を設立した人の例もフランスにある。
子供の教育はいつ始めるべきかとの問いに対して、ナポレオンは「子供の生まれる二十年前、その母親の教育から始めよ」と答えたという。
いかにも、いろいろな意味で、真の教育は教育者から、母の心の教育から始めるべきであろう。
2010年4月21日水曜日
青春回顧
「人間、愚かであるより苦しむ方がましだ。だから自分は、もう一度後戻りして青春をいきたいなどとは思わない」とは、ティボンの言である。全く同感だ、ということは、自分も若いころあまり利口なまねはしなかったことを、白状することになるかもしれない。
「先生はよく僕たちの心理がおわかりになる」と学生がほめてくれたりするとくすぐったくなる。こちらも覚えのあることは、わかるのが当然である。だいたい、前に若かったことのない年寄りなんてあるものではない。
昔の自慢話よりも失敗談をしてくれる年長者というものはありがたい、とある青年が言った。”世界のうらおもて”などと、よそ事ばかり上げ下げして、自分の事は棚に上げっぱなしはちとズルイ、とある読者は言った。どちらももっともと思う。では一つお話ししよう。
今は昔、生意気盛りの青二才としてパリのカトリック大学に通っていたころのことである。有名な哲学科教授ジャック・マリタン先生の講義には、週に一回質問の時間というものがあった。生徒が自由に疑問・駁論を持ち出して先生と議論を戦わせる。この時間になると、決まって難しい反対論を押し立てて華々しい論戦を展開するのが、いつも最前列に陣取っている一女学生だった。彼女のソプラノが教室に鳴り響き始めると、又とばかり、我々男子学生たるもの、あまりいい気持ちはしない。いつもいつも鳴りをひそめて黄色いさえずり拝聴しているばかりが能ではあるまい。ひとつ向こうを張ろうではないか、と仲間と奮起したのが運の尽きであった。最初の代表質問の役はわたしに当てられてしまった。何はともあれ非凡な質問を提出せねばならぬと、本棚から厚い本を引っぱりだし、ライプニッツの単子論に関する反対論に目をつけて、それを丁寧に暗記した。その駁論に対する回答の方もむろん胸に畳み込んだのである。
さて当日になると、胸をドキつかせながら手を挙げ、震える声を押さえて、どうやら終わりまで質問を述べたてた。先生は、なるほどおもしろいクラシックな反対論であると言って、問題を根本から説明し始めた。せっかくの予備知識もどこへやら、わたしはたちまち、わけがわからなくなってしまった。相槌だけはもっともらしく打つものの、今にも何か聞かれはしまいかと生きた心地はなく、流れ落ちる冷汗は今でも背筋に思い出せる。・・・・・無慮一時間も続いたかと思われる説明の末、このくらいで納得できたかと聞かれたときは、拝みたいほどで、どんなもんだと見返ってやるはずの女子学生の姿など、目に入るどころではなかったのである。
ウィリアム・ジェームスは言う。「自分は年を取って魂の不滅を信じるようになった。年を取るにつれてようやく、真に生きるに必要な知識が備わってきたと思うから」
まことに同感というほかないのである。
「先生はよく僕たちの心理がおわかりになる」と学生がほめてくれたりするとくすぐったくなる。こちらも覚えのあることは、わかるのが当然である。だいたい、前に若かったことのない年寄りなんてあるものではない。
昔の自慢話よりも失敗談をしてくれる年長者というものはありがたい、とある青年が言った。”世界のうらおもて”などと、よそ事ばかり上げ下げして、自分の事は棚に上げっぱなしはちとズルイ、とある読者は言った。どちらももっともと思う。では一つお話ししよう。
今は昔、生意気盛りの青二才としてパリのカトリック大学に通っていたころのことである。有名な哲学科教授ジャック・マリタン先生の講義には、週に一回質問の時間というものがあった。生徒が自由に疑問・駁論を持ち出して先生と議論を戦わせる。この時間になると、決まって難しい反対論を押し立てて華々しい論戦を展開するのが、いつも最前列に陣取っている一女学生だった。彼女のソプラノが教室に鳴り響き始めると、又とばかり、我々男子学生たるもの、あまりいい気持ちはしない。いつもいつも鳴りをひそめて黄色いさえずり拝聴しているばかりが能ではあるまい。ひとつ向こうを張ろうではないか、と仲間と奮起したのが運の尽きであった。最初の代表質問の役はわたしに当てられてしまった。何はともあれ非凡な質問を提出せねばならぬと、本棚から厚い本を引っぱりだし、ライプニッツの単子論に関する反対論に目をつけて、それを丁寧に暗記した。その駁論に対する回答の方もむろん胸に畳み込んだのである。
さて当日になると、胸をドキつかせながら手を挙げ、震える声を押さえて、どうやら終わりまで質問を述べたてた。先生は、なるほどおもしろいクラシックな反対論であると言って、問題を根本から説明し始めた。せっかくの予備知識もどこへやら、わたしはたちまち、わけがわからなくなってしまった。相槌だけはもっともらしく打つものの、今にも何か聞かれはしまいかと生きた心地はなく、流れ落ちる冷汗は今でも背筋に思い出せる。・・・・・無慮一時間も続いたかと思われる説明の末、このくらいで納得できたかと聞かれたときは、拝みたいほどで、どんなもんだと見返ってやるはずの女子学生の姿など、目に入るどころではなかったのである。
ウィリアム・ジェームスは言う。「自分は年を取って魂の不滅を信じるようになった。年を取るにつれてようやく、真に生きるに必要な知識が備わってきたと思うから」
まことに同感というほかないのである。
2010年4月18日日曜日
車と風邪と字引と
外国語のよい習得法は、と聞かれて、オウム式がよい、座禅式勉強法は感心しない、いいあんばいにすたれてきたようだがと答えると、たいていの人は妙な顔をする。自己流の命名だから、わからぬのも無理はない。
ひと昔前は、電車に乗るたびに必ず一人や二人この座禅式をやっている学生を見かけたものだった。初めは、いったいどうしたのかと心配した。端座瞑目して膝に手をおき、まさに、無念無想のていで浮世を超脱している。よく見れば手にひと山のカードを握っていて、時々活を入れられたようにその一枚をパッとにらみ、また無言の行に帰る。この異様な修業が、実は日本全国に行われている外国語習得法だと悟るに及んで、わたしは驚嘆と疑問を感ぜずにはいられなかった。
いったい単語さえ頭に詰めこんでおけば、それらがひとりでに繋ぎ合わされて、英文やドイツ文になって出て来るものではない。死んだ単語の収集より、文章の中で息の通っている述語を、辞書と相談の上で覚えて行くべきであろう。
わたしが東西の語学の達人の勉強法を見て感じた秘訣は、辞書に親しむことのほかに、二つある。第一は口まね。すなわちオウム式である。第二に鵜呑み式。なぜどうしてという詮議は無用である。例えば「めでたい」という言葉に対して、目が出たかったらなぜ祝いの意味になるのか、と聞いたところで始まらない。気が気で無ければ、どうして心配を意味するか、と日本語の先生を困らせるようなフランス人には、まず上達の見込みはない、とわたしは太鼓判を押してやるのである。よその国でそう出来ている言葉はそう出来ているものとして、謙遜にそのまま呑みこむべきである。鵜呑み式と称するゆえんである。
日本語を自在に操る外人の中でも、名人芸に達していたのは、十数年前に亡くなった前東京大司教レイ師だった。
ある冬の寒い日、大司教閣下は人力車で外出した。なじみの車屋は車を引きながら、いろいろ愚痴話を聞かせる。こんな暮らしは全く情けない。諸式は高くなるばかり。朝から晩まで車を引いても手に残るものは酒代にもならぬ、等とこぼすうち、後ろの司教様はゴホンゴホンと咳きはじめた。
「おや、だんな、風邪を引きなすったね」と心配そうに振り返るのに、レイ師は、やおら白ひげをなでながら、
「そうじゃよ。ま、こうしたもんじゃ。なあ、お互いこの浮き世に生まれた上は、車か風邪かなにか引かにゃならんもんじゃ」と答えた。
こういう、とっさの応酬をこなすほどになるまでには、どうしても座禅式ではいけない。カードに頼らず刻苦して辞書と取り組む勇気をもつべきである。レイ師の口ぶりをまねるなら、外国語を学ぶ上は、車か風邪かはともかく、字引きは引かにゃならんものと心得るべきであろう。
ひと昔前は、電車に乗るたびに必ず一人や二人この座禅式をやっている学生を見かけたものだった。初めは、いったいどうしたのかと心配した。端座瞑目して膝に手をおき、まさに、無念無想のていで浮世を超脱している。よく見れば手にひと山のカードを握っていて、時々活を入れられたようにその一枚をパッとにらみ、また無言の行に帰る。この異様な修業が、実は日本全国に行われている外国語習得法だと悟るに及んで、わたしは驚嘆と疑問を感ぜずにはいられなかった。
いったい単語さえ頭に詰めこんでおけば、それらがひとりでに繋ぎ合わされて、英文やドイツ文になって出て来るものではない。死んだ単語の収集より、文章の中で息の通っている述語を、辞書と相談の上で覚えて行くべきであろう。
わたしが東西の語学の達人の勉強法を見て感じた秘訣は、辞書に親しむことのほかに、二つある。第一は口まね。すなわちオウム式である。第二に鵜呑み式。なぜどうしてという詮議は無用である。例えば「めでたい」という言葉に対して、目が出たかったらなぜ祝いの意味になるのか、と聞いたところで始まらない。気が気で無ければ、どうして心配を意味するか、と日本語の先生を困らせるようなフランス人には、まず上達の見込みはない、とわたしは太鼓判を押してやるのである。よその国でそう出来ている言葉はそう出来ているものとして、謙遜にそのまま呑みこむべきである。鵜呑み式と称するゆえんである。
日本語を自在に操る外人の中でも、名人芸に達していたのは、十数年前に亡くなった前東京大司教レイ師だった。
ある冬の寒い日、大司教閣下は人力車で外出した。なじみの車屋は車を引きながら、いろいろ愚痴話を聞かせる。こんな暮らしは全く情けない。諸式は高くなるばかり。朝から晩まで車を引いても手に残るものは酒代にもならぬ、等とこぼすうち、後ろの司教様はゴホンゴホンと咳きはじめた。
「おや、だんな、風邪を引きなすったね」と心配そうに振り返るのに、レイ師は、やおら白ひげをなでながら、
「そうじゃよ。ま、こうしたもんじゃ。なあ、お互いこの浮き世に生まれた上は、車か風邪かなにか引かにゃならんもんじゃ」と答えた。
こういう、とっさの応酬をこなすほどになるまでには、どうしても座禅式ではいけない。カードに頼らず刻苦して辞書と取り組む勇気をもつべきである。レイ師の口ぶりをまねるなら、外国語を学ぶ上は、車か風邪かはともかく、字引きは引かにゃならんものと心得るべきであろう。
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